松原湖駅(上)
小海駅(右) |
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昭和の好景気とともに一般にレジャーというものが普及し始めた頃、八ヶ岳や周辺の湖、渓流なども隆盛期を迎えることになります。湖の名称自体が駅名となった「松原湖」にもキャンプ、釣、登山と訪れる若者が多く、現在でもハイシーズンにはアウトドア派の家族連れや学生グループで賑いを見せています。松原湖とは八ヶ岳東麓の標高1,100メートルの高原にある「猪名湖」「大月湖」「長湖」を総称した名前であり、今から約1150年ほど前(平安時代初期)に八ヶ岳を構成する天狗岳の水蒸気爆発で流れ出た泥流が千曲川支流大月川を堰き止めて松原湖の湖群を作り、その後、流れが少し南に逸れてできたものと言われています。その際、周辺の集落は人も家畜もすべて押し流されてしまいました。近くの『馬流』という駅も、上流から馬が流れてきたことが名前の由来となっているほどです。
この小海線の名の由来となった『小海町』は千
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馬流駅 |
高岩駅 |
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曲川の支流である相木川の合流点に開かれた町で、中世は武田氏の支配をうけていました。近世になると流域の山林業や養蚕が主な産業となりましたが、現在ではスキー場やゴルフ場をはじめ別荘地やキャンプ場などリゾート地としての観光業が大きな産業となっています。
さて、路線は「小海駅」から前述した「馬流駅」「高岩駅」へと続きます。このあたりは田畑、農家の物置、古いお蔵などが線路際に所狭しと並んでいて、民家の柵越しがすぐ駅のホームという印象が強いのも特長です。馬流駅には『秩父事件終焉の地』という看板あります。秩父事件は明治時代、板垣退助や中江兆民らの「自由民権運動」と平行するように起きたもので、明治17年、当時の政府が強行した政策で急激に行き詰まった関東、中部地方の農民が、各種税金の滅免、借金の据え置き、支払い延期、学校費の廃止、徴兵令改正などを要求し、秩父地方の自由党員の指導の下「困民党」という名で蜂起したものです。参加者は一万人を越したといわれ、農民が大衆的組織化を行い、経済闘争を越えて武装蜂起で国家権力に対抗したことが特徴とされるこの事件は、8日目にしてこの佐久の地で、警官隊により壊滅させられてしまいました。当時の激戦の跡には農民たちの鎮魂のために記念碑が建てられています。小諸方面に向かう列車が馬流駅を過ぎる頃、左の畑の中に困民党員の像を見ることも出来ます。この反対側の線路際に見事な崖がそびえ立つ姿が目に入ってきますがすが、どうやらこの崖が次の「高岩駅」の名の由来のようです。(つづく)
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