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甲斐小泉駅 |
甲斐大泉駅 |
信越線小諸駅から中央本線小淵沢駅を鉄道で結び、太平洋と日本海を横断という壮大な計画。当時計画路線地域の大部分は未開発の地で、八ヶ岳の実態はそれほど知られていませんでした。この計画の協力者であった小川平吉代議士は、両県の代議士、県議、沿線の村長らに呼びかけ乗馬隊を結成し、小淵沢駅からなんと長野県臼田まで実地踏査を敢行したのです。大正11年9月2日のことでした。総勢200余人、八ヶ岳山麓を行く大乗馬隊。政治家自らが馬にまたがり原野の踏査に汗を流す姿に現地住民達はいたく感動したと言います。期成運動に参画した政治家のちょっとした「いい話」ですね。
かくして昭和10年11月清里から信濃川上間の完成をもって全長78キロメートルの日本列島横断のロマンを載せた路線は全線開通し、正式名称も路線の中間点である「小海」をとって「小海線」とされました。
この全線開通の2年前。大正の大恐慌をひきずった昭和の初期、工事中断を乗り越え昭和8年には小淵沢、清里間が開通しています。この両駅での折り返し運行は前人未踏の八ヶ岳原始林から豊富な森林資源を搬出するところから始まりました。開業当時、駅前には運送店と簡易旅館、豆腐屋の三軒しかなかった清里駅前はしだいに賑わい、隆盛期には搬出を待つ木材であふれ、10両からなる貨 |
車で小淵沢方面に運送されていたそうです。
さらに全面開通と共に長野県野辺山のハクサイが積み荷に加わります。沿線地域が都会人のあこがれを乗せた「高原列車が走る観光地・避暑地」として、売り出されたのもこのころからです。
しかし、世界情勢から見れば、日本は太平洋戦争に突入する直前。この野辺山を「農場からグライダーの訓練所へ」のスローガンの下、演習場が作られ、戦時色を濃くしたのもこのころからでした。戦後、野辺山はレタスを中心にが高原野菜生産地として蘇ります。さらに、路線には蒸気機関車C56が登場し「高原のポニー」の愛称で全国の鉄道ファンの人気をはくします。
甲斐小泉駅は昭和30年の町村合併により、長坂町の駅となりました。付近には名水百選で有名な三分一湧水があり、甲斐駒ヶ岳と富士山の眺望が見応えのある麓が広がっています。甲斐大泉駅は、昭和8年開業。昭和47年国鉄の簡易委託駅として「おばあちゃん駅長」が誕生し後のペンション人気と並んで大泉高原を訪れる人々に人気を呼びました。清里では戦後ポール・ラッシュ博士が再来日し、昭和30年に建設した清泉寮、農村センターの成功と学校寮の誘致などで昭和40年代から「若者の街・清里」の名声が全国的に確立して行くことになるのです。(つづく)
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清里駅 |
野辺山駅 |
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